裸は文化か、わいせつか?
中村 民雄
 先日、岩手県奥州市の「蘇民祭」のポスターが問題となりました。裸の信徒が押し合いながら蘇民袋を奪いあう祭りが「公然わいせつ罪にあたる」として、警察から事前に警告を受け、異様な雰囲気の中で2月13日の夜、祭りが行われました。
 この祭りは、千年以上にわたって伝えられてきた国指定の無形民俗文化財であり、これを「公然わいせつ」という近代的価値観で判断していいものなのでしょうか。そこに参加する信徒は、何日間か斎戒沐浴し、心身共に穢れのない無垢な姿で神仏の前に参拝しているのであって、「裸まつり=公然わいせつ」というとらえ方とは相いれない、伝統的行事として維持されてきたのです。
 そう言えば、日本の近代化が急速におし進められた明治時代のはじめ、相撲取りの裸が「醜態限りなし」とか、「国家の恥辱」とか言われ、文明開化の時代にふさわしくない野蛮な風俗として、批判の矢面に立たされたことがあります。
 しかし、その時は、相撲は歓進(社寺への寄進)であり、興行は宗教行事として批判を乗り切ってきました。多くのスポーツが宗教性を脱して「世俗化」していくなかで、相撲は、1909年(明治42年)に開館した相撲常設館を「国技館」と命名して以来、積極的に神道儀礼を採り入れることにより、「伝統の再構築」をはかり、独特のスタイルを作り出しながら「国技」としての隆盛を勝ち得てきたのです。
 その相撲も、今は東西の横綱はモンゴル出身という時代になり、横綱の品格が問われたと思えば、神聖なる土俵が若い力士がしごきで死亡する事件まで起きています。その一方で、日本相撲協会は大幅な黒字を計上し、見せるプロスポーツとしては大成功という矛盾が露見しつつあります。
 伝統行事と言っても、地域の共同体が崩壊し、担い手となる若者が少なくなり、外部から応援を頼まなければ維持できなくなっていきます。相撲と同じように、形式は伝統的でありながら、外部の人間が次第に主流を占めるようになってきているのです。それとともに、裸に対する意識や、担い手の世代に伝統文化をどのように伝えていくのか、大きな岐路にさしかかっているようです。