| 残心(ざんしん) | 中村 民雄 |
| 武道、中でも剣道の試合では、残心(ざんしん)を示さないと「一本」を取り消され ることがある。これは、他のスポーツにはない独特の判定基準と言えよう。 今日、剣道の試合は、全日本剣道連盟が定めた「剣道試合・審判規則」に則って行われている。残心については、その規則第十二条に、「有効打突は、充実した気勢、適正な姿勢をもって、竹刀の打突部で打突部位を刃筋正しく打突し、残心あるものとする」と規定されている。 この規定のルーツを辿っていくと、今から百年前、一九〇七年の「大日本武徳会剣術講習規定」にまで遡ることができる。 さらに、こうした明文化された試合・審判規則を離れて、文化的な背景から眺めてみると、寛永九年(一六三二)柳生宗矩(むねのり)によって書き著された『兵法家伝書』に「残心の事」という一項があり、その子息・十兵衛三厳(みつよし)によって寛永十九年に書き著された『月之抄』には、「勝たりとも、打はずしたりとも、とりたりとも、ひくにも掛るにも、身にても、少も油断なく、心を残し置事第一也」と、解説されている。 そこには、江戸という平和な時代においても、実戦武術が教える「油断大敵」とか、「窮鼠猫を噛む」といった教訓を残心という形で表し、教えたものと見ることができる。 たかが残心、されど残心。四〇〇年間脈々と受け継がれてきた文化の「心性」を忘れてはならないであろう。 ところが、同じ武道でも、柔道は、いつ頃かわからないが、残心ということを言わなくなってしまった。多木浩一が『スポーツを考える』(ちくま新書、一九九五年)で述べているように、「エスニックなスポーツであった柔道が世界的なスポーツに変身していった過程で、そこに含まれているナショナルな精神的伝統つまり非近代的な文化の残滓(ざんし)を払拭しなければならなかった」ためなのか。 投げっぱなしを「良し」とする風潮に変わってしまった。 武道の勝敗は、技が決まる瞬間を判定するのではなく、技をしかけるプロセスを一連の流れとして判定するものであった。残心を含めた技のまとまりを判定するものであった。 しかし、武道の国際化とともに、そうした価値観はいつか変えざるを得ないのかもしれない。これまで剣道は、結果オンリーの「当てっこ剣道」になることを危惧しながら、他方では国際化をはかってきた。十二月八日から開催される第十三回世界剣道選手権大会がその分岐点とならないよう注意して見ていきたい。 |
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