体育坐り
中村 民雄
 秋の運動会が真っ盛りの今日この頃、出番を待つ間、注意事項を聞いている子ども達の姿勢は、大抵が「体育坐り」である。
 この「体育坐り」、別名「リアン・尻ペタ族」が増えていることを、体力の低下とは別の角度から見てみる必要もあるような気がする。
 さて、この「体育坐り」に三角坐り」が流行りだしたのは一九六〇年代以降のことと言われている。しかし、団塊の世代でもある筆者にはそうした坐り方を指導された記憶がないので、六〇年代でも後半、七〇年代になってからのことではなかろうか。
 いずれにしても、一九六四年に開催された東京オリンピックを機に、われわれの生活は急速の欧米化し、日常生活からは確実にしゃがみ姿勢がなくなっていった。その一例として、家庭のトイレも和式から洋式へと移行し、もはやしゃがみ姿勢は非日常的な姿勢となりつつある。
 かつては、草取りをしていたおじいちゃん・おばあちゃんの日常的な作業姿勢であり、一休みする姿勢でもあった。それが、いつの間にか「イス」に坐る文化にとって代わられようとしている。
 それに反して体育の授業では、「体育坐り」が当たり前のこととして普及し出し、子どもが坐る場所では必ずこの姿勢がとられている。そのことにどんな意味合いがあるのかを探ってみようと思う。
 また、若者の間に「ジベタついて、演出家の竹内敏晴は、『思想する「からだ」』(晶文社、二〇〇一年)の中で、この坐り方は、子ども自身の手で自分を縛りつけ、手も足も出せないようにした姿勢であり、自分でこの姿勢を取ってみればすぐに気づくことであるが、息をたっぷり吸うこともできない、「息を殺している姿勢」であると言う。つまり、手も足も出せず息も殺している状態に子どもを追い込んでおいて、教師はやっと安心できる、教師による「無自覚な、子どものからだへのいじめ」ではないのかと述べている。
 確かに、教員の側からすれば都合が良いし、管理教育の切り札となっていることも事実であるが、「坐りこみ」ということもあるように、決して一筋縄ではいかない「したたかな姿勢」でもある。単純に弱い子ども達の屈服した姿勢と思っているととんでもないことになるのではなかろうか。
 そうした子ども達の反撃が他人を無視した「視線平気症候群」と言われる「ジベタリアン」や「人前での化粧」といった数々の行動を生み出しているのかもしれない。