| 土俵 | 中村 民雄 |
| 大相撲三月場所は、福島県ゆかりの栃東にとって、横綱昇進がかかった大事な場所でしたが、残念ながら十二勝止まりで昇進を見送られてしまいました。しかし、北の湖理事長は「来場所、十三勝以上の優勝となれば話題は出てくる」と期待を込めて述べています。 ところで、現在では、大相撲の土俵は丸いもの、その大きさは十五尺(内径、四・五五メートル)、俵で言うと二十俵と決まっていますが、この形になったのは、昭和六年(一九三一)五月十四日に始まった夏場所からです。それまでは、この内側にもう一つ土俵があり、内径十三尺(三・九四メートル)、俵で言うと十六俵の二重土俵でした。 その二重の土俵は、「大江俊光記」(『古事類苑・武技部』神宮司庁、一九〇〇年)に、「元禄十二年五月二十八日、・・・土俵四本柱、三間四方、其内丸ク二間、地行より三尺程高シ」と書かれているように、江戸中期にはすでにありました。 さらに、おそらく相撲絵巻の最古の史料と思われる寛永八年(一六三一)と明記された『相撲行司絵巻』(『天理図書館善本叢書・古道集二』天理大学出版会、一九八六年)には、四本柱と方屋(かたや)は描かれていますが、土俵はありません。柱と柱の間には注連縄が張られており、これが勝負の境界線であったこともわかります。したがって、江戸初期の頃にはまだ土俵はなく、中期になってつくられたものであることがわかります。 また、元禄(一六八八〜一七〇四)の頃には、四角い土俵もありました。「奥州南部は相撲の土俵場を円形にせず、方形に置て其角々に四本柱を建つ」と、松浦静山の『甲子夜話』(東洋文庫本。平凡社、一九七七年)に書かれていますし、「南部相撲江戸興行図」という屏風絵にも、四本柱に四角い土俵が描かれています。このように奥州南部(現在の岩手県盛岡市)では、四角い土俵で相撲をとっていたようです。これがいつ頃まで続いたのかはよくわかりません。 さて、土俵という区画がはっきりしたことで、相撲の技はどのように変わったのでしょうか。まず変わったのは、立ち合いです。それまで「中腰」で立ち合っていたものから、手をついた相撲独特の立ち合いに変わりました。そして、「相撲四十八手」と言われる技も江戸後期には完成しています。 そんな土俵の歴史を頭の片隅に置きながら、五月場所での栃東の横綱昇進を応援してみては如何でしょうか。 |
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