| 駅伝 |
中村 民雄 |
| 駅伝といえば、正月の風物詩として、すっかり定着した感のある東京箱根間往復大学駅伝競走(通称「箱根駅伝」)を思い浮かべる人が多いことでしょう。 また、今年はまれに見るデッドヒートが展開され、特に、復路の8・9区はめまぐるしく順位がかわり、テレビに釘付けとなった人も多かったことでしょう。最後は、亜細亜大学が総合で初優勝という快挙をとげ、幕を閉じました。 ところで、駅伝とは、もともと古代の交通通信制度のことで、中国・唐の制度にならって三十里ごとに駅を置き、駅馬を揃え、緊急事態に備えた通信システムのことです。 のちに、これを受け継いだのが飛脚で、俗に「飛脚は一日三十里走る」と言われる所以も、そこから来ているのです。 そこで問題となるのが、「飛脚は一日三十里走る」ということを、現代的(一里は約四キロ)に解釈して、「飛脚は一日に一二〇キロメートルも走ることができる」と、まことしやかに書いているスポーツ書が実に多いことです。中には、「江戸時代の飛脚は一日二〇〇キロも走った」と書いているものもあります。マラソン選手でもこんな長距離、ひとりではとても走れません。 そうした勘違いの原因は、唐の駅制の「里」という単位を知らないことからおこったものです。そもそも唐の時代の「里」とは、五尺(一尺は約三十六センチメートル)を一歩とし、三百歩を一里とするところからきておりますから、この場合の一里は約五四〇メートルになります。したがって、三十里は約十六キロメートルとなり、箱根駅伝の一区間よりもやや短い距離ということになります。 箱根駅伝の中継地、戸塚と平塚の間には、藤沢宿があり、平塚と小田原の間には、大磯宿があるように、そこが宿駅となって、次の飛脚へリレーされていったのです。これを継飛脚と言います。 なお、この一里を約四キロと定めたのは、徳川家康で、東海道に一里塚を築いたのがそのはじまりです。 箱根駅伝はその東海道を走るものですから、応援しながら、そんな昔の「駅伝」のことに思いを馳せては如何でしょうか。 |
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