前後際断 白石 豊
 私がメンタルトレーニングを指導している選手の一人に、阪神タイガースの下柳剛投手がいます。下柳投手は昨年、15勝3敗というみごとな成績を残し、最多勝のタイトルを獲得しました。そして彼のタイトルには、もう一つおまけがつきました。それはプロ野球史上最年長の最多勝投手というものです。彼は、37歳になっていたのです。
 私が下柳投手を指導するようになったのは2001年からですので、今年で5シーズンが経過しました。当初、彼は日本ハムファイターズに在籍していましたが、2003年に阪神に移籍しました。
 2003年のシーズンが開幕して2ヶ月ほど経った頃、順調に勝ち星を重ねていた下柳投手から、こんな電話が入りました。「先生、何かいい本はないですか。先生の書かれた本は、ほとんど暗記するほど読んでますけど、僕たち先発投手は、中5日ぐらいのペースで投げますから、けっこう時間があるんですよ。何かピッチングに役に立つような本はないですかねえ。」
 こうした彼の問いに、私は次のように答えました。「ああ、それだったら沢庵禅師が書かれた『不動智神妙録』というのがあるから、あれを読むといいよ。きっとピッチングのヒントになる言葉が見つかると思うよ。」
 それから1週間ほど後に、再び下柳投手から電話がありました。「先生、ありました。先生が気づかせたかったのは、“前後際断”という言葉じゃないですか。前というのは終わってしまった過去のこと、後というのは未来のこと、どちらも気に病んだり不安がったりしたんでは、集中できなくなってうまくいきませんよねえ。ピッチングも結局、一球一球の積み重ねですから。この言葉を忘れないようにグローブに刺繍することにします。」
 沢庵禅師の原文では、「前後際断と申す事の候。前の心をすてず、又今の心を跡へ残すが悪敷候なり。前と今との間をば、きってのけよと云う心なり。是を前後の際を切りて放せという義なり。心をとどめぬ義なり」となっています。
 あれから3シーズンが経ちました。今でも下柳投手のグローブには、「前後際断」の四文字がきれいに刺繍されています。
 彼は2003年に10勝を挙げ、星野阪神の優勝に大きく貢献しました。そして昨年は冒頭でも述べましたように、15勝3敗で最多勝投手に輝きました。
 「前後際断」。この言葉を、下柳投手のひょうひょうと投げ続ける彼のマウンドさばきと重ねてみていただければ幸いです。